前回、「期待」について最後はみなさんに投げかける形で中途半端に終わりました。
正直、この記事は書いていてみなさんにうまく伝えることが非常に難しいです。
こちらの意図と全く異なる捉え方をされるかもしれません。拙い文章ではありますが、少しでも伝われば嬉しいという気持ちで書かせていただきます。よろしくお願いいたします。

 今回は「裏切り」についてです。
みなさんどうでしょう?「友達に裏切られた」「子供の成績に裏切られた」「仕事仲間に裏切られた」「世の中に裏切られた」等、今まで何かに「裏切られた」ことがあるでしょうか?
もしくは逆に「裏切った」方もいるのではないでしょうか?

 まず大前提として、「裏切り」というものは、犯罪ではありません。
しかし、最もと言っていいくらい人が嫌がるものであり、信用を大きく失う行為であります。
そして、この世の人々は、誰かを裏切らないように日々を生活しているといっても過言ではないでしょう。

裏切り行為は大きく分けて、

 ①「裏切っていることが本当のところで分かっていなかった。」

 ②「裏切っていることが分かっていて行った。」

の2種類があります。

 ①はよくあるパターンですね。最近では、

・(元)雨上がり決死隊の宮迫さんが、you tubeを始めた時期が、蛍原さんにとっては裏切り行為であったと、蛍原さん自身が間接的にお話しされました。

・(元)日本ハムファイターズの中田選手が、同僚を殴った行為が、プロ野球ファン(特に子供たち)への裏切り行為であるとワイドショーで騒いでおりました。

・愛知の常滑市で、緊急事態宣言化であるにも関わらず行われてしまったHIP HOPライブ「NAMIMONOGATARI2021」では、「密」状態であったり、酒類の提供であったりが行われ、あらゆるイベント関係者、愛知県、ひいては未だにコロナによって我慢を強いられている全日本国民にとっての大きな裏切り行為でありました。

ただ、これらの裏切り行為は、はっきり言ってしまえば、「分からなくもない」というのが正直なところではないでしょうか? つまり、誰だって好き好んで間違えたわけではなく、自身で考えて行った結果が、「何かが足りなかった」だけである。
その思慮の浅さ加減が、その人の「器」であり、「その人自身」なのである。「裏切られた」という思いは、「自分の思い描いていた人」と「その人自身」の「真実」が違っていたという、ただ1つの思いからくるものなのです。

何度も言いますが、大前提に「裏切り」行為は許せないものであり、信用を大きく失う行為です。
しかしその一方で、その人の「真実」が見えるわけです。また、自分自身の許す、許せないの「基準」も見えてきます。
この「基準」をどこまで緩めることができるかが、人間の成長だと私は強く思います。

 前回書かせていただいた「期待」は、過度にかけると本人にとって大きなプレッシャーとなり、無理をしてしまいます。
その結果失敗すると、「期待」を「裏切った」と思ってしまいます。この繰り返しが、世間一般で言われている「障がい者」を生むのではないでしょうか?

 生物には多少の負荷は絶対に必要です。負荷に負けないよう強くなるからです。
ただし限度があります。それをみなさんに強く知ってほしいです。
大きなダメージを受けた方であればあるほど、「生きていてくれたらそれでいい」「笑っているからそれだけで幸せ」「一緒にいてくれるだけでいい」等のことを知ります。ただせっかくの人生、知ってさえいれば大きなダメージを受けなくてもすみます。
そして我々は聖人ではありません。
自分の周りの方々に変に「期待」しすぎず、「基準」をどこまで緩めれるかを無理せず、できうる限りで「許す」ことが、1つの大きな真理ではないでしょうか?